女性がキレイで、ステキで、知的でいるための情報ブログ

きれいでねっと




ファッション

着物を着る前に・・・ちょっと着物の歴史でも知っておこう!

更新日:

年齢を問わず着物をさらりと着こなすことのできる女性、「着物が生活の一部となっている」ことを感じさせるような女性に、私たち日本人はこの“麗しさ”を感じて強く魅かれることがよくあります。

女性なら誰もが一度は憧れる・・・そして着てみたい着物。

そんな着物って、いったいどんな歴史があるのか・・・ちょっとひも解いてみました。

平安時代までの着物

紀元前1万年前後から紀元前4世紀ころまで続いた縄文時代には、人々は主に竪穴式住居に暮らし、厳しい自然の中で狩猟生活を送っていました。

そのためにこの時代の衣服は、寒さ暑さをしのいで外敵や雨風から身を守るためのもので装飾品としての意味合いはなかったために、獣皮や魚皮、樹皮を 腰に巻く程度のものでした。

弥生時代に入って農業が行われるようになり麻などの繊維が手に入るようになるとそれらを用いた織物が作られるようになり、女 性用には布に穴をあけて頭からかぶる"貫頭衣"と呼ばれるポンチョに似た衣類も登場してきました。

一方男性は、1枚の大きな布を肩からかけて前で結び、もう1枚の布を腰に結んだ"袈裟衣"というものを身に付け、特に位の高い人たちの衣服には絹織物が使われていたようです。

また中国の魏の時代の史書"魏志倭人伝"によると、弥生時代になると紫草や藍などを原料とした染物も行われて機織も発達しています。

他国との交流が盛んに行なわれ始める古墳時代の様子は埴輪や古事記・日本書紀などの文献から推測されていますが、この時代には日本でも養蚕が盛んに行われるようになって絹織物も多く作られるようになります。

中国の衣服を真似た筒袖の上着に女性はスカート、男性は膝のあたりを紐で縛ったズボンを着用してい たようです。

さらに飛鳥・奈良時代には遣隋使や遣唐使が持ち帰った中国文化の影響をさらに強く受けるとともに聖徳太子によって冠位十二階が制定されて位によって冠と衣服の色が定められて、着物もそれまでの"左前"の打ち合わせから"右前"の打ち合わせに改められています。

平安時代になって遣唐使が廃止されると、衣服も次第に高温多湿の風土に適するような日本独自のものへと変化し、本格的な国風文化が開花し始めます。

見事な色彩が特徴の"十二単"は、見栄えの美しさだけでなく平安時代の建物の構造に合わせて暑さ寒さの調整ができるように考案されたとも言われてい ますが、これまでの筒袖は大きく変化して広袖になり、これが発展して現代の着物の原型である"小袖"へと発展していくことになります。

鎌倉・室町時代の着物

鎌倉時代になって天皇・公家を中心とした平安時代の政権から武士による政権が確立されるにつれて、人々の生活にも変化の兆しが見え始めました。

それはまず衣服の簡素化として表れ、貴族の女性が着る十二単のように何枚もの重ね着は次第になくなって、これまで広袖衣服の下着であった"小袖"が表着として着られるようになってきました。

とはいえ、上着となると筒袖の部分は多少ボリュームに欠けるために、デザインもそれに"振り"がつけられることが多く小袖もかなり表着らしくなってきました。

それに加えて中国の高級織物の技術を習得した職人たちによって、唐織や博多織などの豪華で華麗な織物が作られるようになり、室町時代から桃山時代にかけて"小袖"は社会のあらゆる階層の人たちの衣服の中心的存在となりました。

中でも上流階級の女性たちは小袖を数枚重ねて細帯を締め、その上により華やかな小袖を羽織って着ていましたが、これが後に"打ち掛け"と呼ばれるようになりました。

そして"着るもの(:着物)=小袖"という感覚が人々の間に浸透していき、"小袖"はいつしか"着物"と呼ばれるようになり、染めや絞り、模様など手の込んだものも作られるようになって織物産業だけでなく染物産業も盛んになっていきます。

中国から染織物が輸入されたり、明の職人が日本に招かれて染織技術が伝えられたために日本の職人たちの技術にも磨きがかかって、高度な技術を要すると言われる能衣裳などを作ることのできる人たちが登場してきます。

かつて平安遷都に伴って京都には宮廷の織物を管理製造する"織部司"という役所が置かれ、我が国の織物産業の発展に重要な役割を担ってきましたが、 武家の勢力が増し宮廷を中心とした公家や貴族の勢力が衰えるにつれて"織部司"の機能も次第に薄れていきます。

この時代には染めや織りから仕立て、販売までの 過程を一手に担う民間の"小袖屋"があちこちで出現し、今日の呉服製造業の基盤が徐々に固まっていきます。

ただ当時はまだ日本で木綿が栽培されていなかったために、一般には麻や、籐、葛、少々贅沢なものとして絹などが織物の原料として用いられていました。

安土・桃山時代の着物

戦乱も一旦治まり、豊臣秀吉が政権を握る桃山時代になると新しく勢力をのばした大名や、海外貿易で活躍した商人たちの気風を反映して雄大で豪華な"桃山文化"が栄えました。

ポルトガル人によってもたらされた南蛮文化の影響を大きく受けたこの時代は、これまでの仏教文化の色合いが薄れて斬新さや色彩の明るさ、自由な発想が人々に受け入れられ、かつてない人間的で活気に満ちた文化が築き上げられました。

この時代に流行した"桃山小袖"はキリシタン文化の影響を受けた色も柄も大胆なもので、刺繍を全体にめぐらせたものや、草花模様を紅色に染めた辻が花染を多く使っているのが特徴です。

次に流行した"慶長小袖"は"桃山小袖"に比べると色調がやや暗めになってきていますが、従来のように一定の部分だけに模様が施されたものとは異な り、生地を複雑な区画に染め分けて刺繍や箔によって模様を描く動きのあるデザインとなります。

布地も生糸を縦糸とし練り糸を横糸として織ったこれまでの平織の"練 貫"とは異なり、柔らかな素材で身体に馴染む"紗綾(:さや)や綸子(:りんず)"が使われることによって、より動きのあるデザインの小袖に発展していま す。

呉服商は顧客に"雛形本"と呼ばれる現代のファッションカタログのようなものを見せて注文をとっていましたが、そこには小袖に描かれる図案のサンプルがいろいろ載っていて、人々の関心は小袖の形というよりももっぱら小袖に描かれている模様にあったと言われています。

また小袖の発展と平行して、庶民の間では"名護屋帯"が流行しています。

これは1592年の文禄の役の時に朝鮮から現在の佐賀県の名護屋に伝わったもので、韓組(:からくみ)の技術を用いて唐の糸を組んで縄状の帯にした もので、長さは4.5m、両端の房は30cm程度とかなり長く、赤や白、黄色、青などさまざまな色のものを腰に幾重にも巻いて後や横で結ぶのがオシャレの 1つであったようです。

江戸時代の着物

徳川家康が1600年に関が原の戦いで勝利をおさめ、1603年に江戸に幕府を開いてから、1867年の徳川慶喜の大政奉還に至るまでの約260年間の徳川時代にはキリスト教禁止という名目で鎖国が行われ、中国・オランダ以外の国との交流を断っていました。

そのためにこの時代には純粋に日本独自の文化が栄え、着物も外国の文化の影響を受けないで国内だけで発達していきました。

江戸時代の前期はまだ桃山時代の名残で、小袖に細帯で髪は中国女性の髷を真似た"唐輪髷"という形で頭の頂に束ねた髪の上を二分して二つの輪を作 り、その根を余りの髪で巻くというのが一般的でしたが、中期になると帯幅が次第に広くなり、それとともに髪型にも変化が表れてきました。

髪型や着物は身分によっても異なり、例えば大名の息女は前髪に"ビラビラかんざし"や"花櫛"などの髪飾りをつけ、輪をふっくらと高く膨らませた"吹輪"という髪型に袖の長い"振袖"を着ていました。

武家女房や武家屋敷で働く御殿女中は、下げ髪を輪に巻いて笄(:こうがい)という箸のような髪飾りを横に貫き、毛先を笄の右下から左下や右下へと回 しくぐらせて余り髪を後方に張り出た髱(:たぼ)の後側に流す"片外し"という髪型に、着物は"間着"と呼ばれる小袖の上に打掛を羽織るのが一般的でし た。

また町人の既婚女性は、楕円形でやや平たい髷をつけたような"丸髷"を結って櫛や笄を付け、小袖を着ていましたが、袖の長さを見れば結婚しているかどうかが分かったようです。

江戸時代も後期になると小袖に丸帯で、髪型は"丸髷"や"島田髷"、"桃割"、"銀杏返"などといったさまざまな日本髪が完成し、帯はそれまで10cm前後であった幅が30cm前後になり、着物の柄も総模様から裾模様へと変化していきます。

そしてこれまで織物が主流となっていたのが、"友禅染"が普及し始めて染物もこの時代に大きく発展し、生地に華やかで繊細な模様が描かれるなど着物はさらにその魅力を増していくのでした。

明治時代以降の着物

江戸時代も末期の1853年に、アメリカの海軍軍人であるペリーが日本を開国させるために東インド艦隊を率いて浦賀に来航しました。

それによって日本は鎖国という長い眠りから覚めて横浜で和親条約を結ぶことになるのですが、1868年に徳川慶喜が大政奉還をして明治政府が誕生すると、これまでの"遅れ"を取り戻すかのように日本は天皇を中心とする近代国家への道を一気に邁進し始めます。

こうして開国によって他国の文化が入ってくるようになると、政府の要人の服装も洋風化が進められ、明治5年には"大礼服制度"が制定されて上流社会の欧米化が進みました。

一方で、一般男性の黒羽織二重五つ紋つき織袴や一般女性の黒や色無地の縮緬五つ紋付裾模様下襲に丸帯の礼装も次第に和洋折衷タイプの衣服へと変化し ていき、細やかなデザインとハッとするような斬新な色使いで、ハイビスカスや百合、バラなどの洋花がのびのびと表現され、きれいで華やかなのがこの時代の 着物の特徴となっています。

また、外国品は"舶来"といってことごとく重宝がられて若い女性たちの間では和服の衿元にブローチを付けたり、指輪をしてハンカチを持つのがブームとなりました。


現在では、着物は礼服や晴れ着として改まった席で着用される衣服というイメージが強く、私たちの日常生活は洋服が中心となって着物を着る機会が非常に少なくなってきています。

けれども日本にはお宮参り、七五三、入学式、成人式、結婚式、初詣といった大きな伝統行事の他にも、毎年夏祭り、盆踊り、お茶会、七夕会などといった催しが各地で行われ、現代でも着物を着る機会はたくさん残っています。

そこで、これまで洋服一辺倒の人でも生活の一部に着物を取り入れて衣生活の幅を少し広げてみてはどうでしょうか。

きっと、これまでに味わったことのない"新鮮な感覚"を味わうことができるでしょう。

それは、"新鮮"というよりむしろ、日本人として忘れかけていた"懐かしい感覚"であるかもしれません。




-ファッション

Copyright© きれいでねっと , 2017 AllRights Reserved.